ブランコ

最寄り駅まで歩いて行く途中にある公園で、おばさんがブランコを漕いでいた。すぐ近くの砂場でその子供らしき2人組が遊んでいる。俺は「わんぱくおばさんだ」と思った。多分周りの通行人も「わんぱくおばさんだ」と思ったことだろう。

 

近くで子供が遊んでいることで、「ブランコを漕いでいるおばさん」は「白昼堂々ブランコで遊ぶヤバいババア(略して白ヤバア)」から「わんぱくおばさん」に昇格する。この構造が、たまらなく羨ましい。

 

俺は中学生まではブランコ大好き少年の称号を欲しいままにしていた。通学路に公園あればブランコを漕ぎ、最高地点からジャンプして脚を挫く、そんな自他共に認めるブランコ大好きっ子だった。

ただ高校生になるとそうもいかない。俺のブランコへの愛は、人並みの羞恥心に勝てなかった。ブランコを見つけては下唇を噛み締める日々。結局高校時代、何度か友達と一緒に山の上の公園でブランコを漕ぎはしたものの、青春を過ごした東北の温かい大地の上でさえ、その光景は悪ノリの様相が隠しきれていなかった。

 

ましてや俺は今成人しているし、氷のような東京のコンクリートの上に生活している。白昼堂々ブランコを漕ぐ成人男性を受け入れる心の余裕は、この街には無い。

 

かくして俺は人生設計を立てた。なんとか頑張って結婚して子供を作り、夫婦で手を取り合って子育てをし、子供が5歳そこそこになったら公園に連れて行く。ブランコは危ないから乗せないで、近くの砂場とかで遊ばせる。俺はそれを見守りながらブランコで遊ぶ。これによって「ブランコを漕いでいるおじさん」は「白昼堂々ブランコで遊ぶヤバいジジイ(略して白ヤジイ)」から「わんぱくおじさん」に昇格する。

俺はもう一度太陽の下でブランコを漕ぐために、人並みの人生を送らなければならない。ただブランコを漕ぎたいだけなのに、なんでこんなシャバに帰りたい囚人みたいなテンションになっているのか、これは社会が悪い。

 

丁度試験会場の最寄り駅に着きました。なぜか福島のおばあちゃんの家の匂いがする。試験頑張ります。